創業90周年の記
 運というものは、誰にでも平等にさずかっておる筈です。ただその運を掴むか見逃すかは、その人の努力もさることながら、日頃の誠実、真摯な生活がもたらすものと思考致します。
 アメリカ第28代大統領T.W.ウイルソンは、「運命の中に偶然はない。人間はある運命に出会う前に、自分でそれをつくっているのだ。」と申されております。
 また、文豪夏目漱石も小説の中で、「運命は神が考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれでよいのだ。」と書かれておられます。正に名言、至言と思われます。初代亀二郎がそれに出逢ったのも、その格言の通りと聞き及んでおります。
 時の福島県の土建業の大御所であり、福島商議所(現福島商工会議所)会頭、衆議院議員までつとめられた大島要造翁は、あるとき一の子分の千田耕造さんを呼ばれ、「今度の仕事で小野はだいぶ損を出したとか、多分夜逃げをしたと思うがお前見てこい。」と命じられた。
 千田さんが小野家の門口に立つと障子が明るく、なかから「たんとんとん、たんとんとん」と音がする。穴からそうっと覗くと、お袋は、藁を叩き、親父は明日履く草鞋を編んでいた。「小野お前夜逃げをしなかったのか」、「夜逃げをしたって借金が無くなる訳ではありません。みんなに話をしたら待ってくださるとのこと、働いて返しますよ。」親父の正直な人間性に打たれた千田さんは、親父と兄弟分の盃を交し、そのままを大島親分に報告したそうです。親父に運がつく、それはその時に始まったようです。このことは福島中学に入学し、千田家に下宿させてもらった現小野組社長、四男坊の義美が追憶記のなかでそう記しております。
 初代、小野亀二郎は、明治4年4月15日、大分県宇佐郡津房村松本(現安心院町)において、父杢平、母さをの二男として生まれました。山深い処の貧しい農家です。
 明治の始め教育施設とてなく、また受ける余裕とてなく、働ける年頃になるのを待ち兼ねるように奉公に出されたようです。
 初代は寡黙な人で、余計なことなど余りしゃべりません。叱る言葉も一言か二言、私なども「男はな、やろうと思ったことはやり通せ。」そう叱られたことは、終生忘れ得ぬ言葉です。そんな具合ですので、くどくどと身の上話など語ることもなく、少年期から青年期まではあまり詳らかではありません。判っていることは16才で故郷を後にし、石工として主に鉄道工事に従事しながら郡山へ、それは多分苦労の連続であったと推測致します。
 西郷隆盛、従道の食事の逸話があります。初代も同じ九州生まれの南州(西郷隆盛)同様、食い物で「まずい」ということは一度もなかった由、それと物は残さない、苦労の中から生まれた生活態度です。
 明治30年同業の大先輩亀山春吉さんのご媒酌により、郡山の酒井リエと結婚、時に亀二郎27才、リエ16才でした。翌年の7月15日に長男利勝誕生、明治34年には次男貢がともに郡山で生まれております。本来ならば三男となるべき男の子が死胎で生まれ、明治36年白河の寺に埋葬されておりますので、明治35年には白河町金屋町に居を構え、本格的に仕事に取り組んだものと思われます。
 その年月日を定めるに当たり二代目と相談を致しました。親父がこういう商売をしているなと判ったのは、物心のついた5才頃のこと、それでは二代目の満5才の誕生日、明治36年7月15日とすると定めました。爾来今年で満90年となります。
 初代を語るとき、内助の功高きお袋を紹介しなければなりません。
 個人経営であったので事務所は自宅、現在の自宅でも玄関脇の1坪半位の処が事務所でした。お袋が常に座る茶の間からは玄関、事務所の双方が良く見えるようになっており、現場の虫で留守がちな父親の留守を守り抜いたのがこのお袋です。小さな体のくせに気丈で、並み居る配下たちはお袋を一目も二目もおいておりました。渡り土工などが来て仁義をきってもビクともしません。それでいて情け深く「オッカちゃん」と慕われて、茶の間には人の絶え間がなく、夜になると持ち家の家族が集まり、旦那方は囲碁、奥方達はお茶のみ話と、それはそれは賑やかなものでした。
 とにかく働きづくめの一生であったようです。
 それを物語る話として、お袋は「親父は人様の二人前働いたぞ」と子供達に言って聞かせました。
 とにもかくにも仕事を愛した親父でした。
 現場を担当した小野義美に、検査官が「この現場に父親は何回来た」、「はい5回来ました」、「ああそうか、それなら大丈夫だから検査は省略」。
 この父親の呼び名が「おとっつあん」、お袋のことを「おっかちゃん」。夫婦ともどもに信心深く「おとっつあん」は妙徳寺総代、「おっかちゃん」は婦人議会長をつとめました。そして昭和12年10月13日自宅で眠るが如き大往生を遂げました。行年66歳、人間は棺を蓋って始めて事定まるとか、「おとっつあん」の棺は人にまかせるわけにはゆかんと、雨の降りしきるなか白の裃を着た配下達が妙徳寺から火葬場まで担ぎました。忘れ難い思い出であり、親父の偉大さを知りました。
平成6年6月14日       三代目社長 小 野 亀 八 郎